グイノ神父の説教

 

復活節

B年

復活の祝日から

キリストの聖体まで


  復活の祝日
復活説第2主日
復活説第3主日
復活説第4主日 
復活説第5主日 
復活説第6主日 
 主の昇天の主日
聖霊降臨 の祭日
三位一体の祭日

    復活祭 (昼) 202144     グイノ・ジェラール神父

          使徒10,3437-43   コロサイ3,1-4    ヨハネ20,1-9

 イエスが父なる神の手に自分の魂を委ねたその瞬間、死が完全に敗北しました。キリストの復活は栄光の証明です。ヨハネによる福音書の中で「見る」という動詞がよく使われています。今日の話によると、混乱して走る人々や空っぽの墓、置かれていた亜麻布を見ましたが、この目に見える様々なしるしでは信仰を与えることが全くできませんでした。よく見ることや信じることができるために聖書の教えが必要です。今日の福音の最後の言葉はこの事実を思い起こさせます。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と。この文章は私たちをびっくりさせます。なぜならイエスの愛する弟子であるヨハネは「見て、信じた」と書いているからです。聖書の言葉を理解し聖ヨハネが見たもの、しかし他の人たちには見えなかったものはいったい何でしょうか。

 復活されたイエスは、ご自身が「聖書全体にわたり自分について書かれていることを説明する」(参照:ルカ24 27)ことが必要でした。聖書の教えなしには復活の出来事を信じることは到底無理ですから。復活を信じるには、知恵と愛要求されています。聖書を読むこと、そして神の言葉を聞くことは、神によって愛されることを承諾し、自分の前に信仰の門を開くのです。聖ヨハネはイエスの愛を受けたので、自分の心の目を開き復活の出来事を理解しなくても信じました。その後、聖書の言葉の説明を聞いて他の弟子たちもようやく心の目を開き、復活の事実を信じるようになりました。同時に弟子たちは自分たちに対する神の愛、そしてまた全人類に対する神の愛を発見しました。

 弟子たちが歩んだこの信仰の道は、今私たち歩んでいる道です。弟子たちの信仰と私たちの信仰の違いはあまりありません。私たちは復活されたキリストを見たことがありません。しかし聖書の教えを受ける時に、心の目を開けば、弟子たちと同じように神に愛されていることを前よりも深く信じることができます。

 マグダラのマリアはイエスによって癒されました。彼女はイエスに大変感謝して、ずっと従っていました。しかし、「マグダラのマリアが信じた」と福音書は述べていません。イエスに選ばれたペトロも、夢中になって離れずにイエスの後に従いました。しかし福音書は「ペトロは信じた」と述べていません。イエスの愛で包まれていた聖ヨハネは信じたと福音書は証しています。聖ヨハネが復活の出来事を他の弟子たちよりも早く信じることができたのは、キリストの愛のお陰です。神は愛する方であり、命を与え、また命をよみがえらせる方であります。特に、私たちが神と共に生きるように召されているということを、キリストの復活はまず教え、証しています。そして次にイエスにおいて、全人類が愛されていることやイエスが神の栄光にげられていることを復活の出来事は確かに教えています。

 ですから、キリストの人生の出来事であろうと、また、私たち自身の人生の出来事であろうとそれらを深く理解するために、どうしても愛で溢れる聖書の言葉を読んだり、聞いたり、思い巡らしたりすることはとても大切です。愛は真理まで導き、心の目を開きます。愛だけが聖書の中で神が実現する救いの計画を発見させ、理解させます。聖書を開くたびに、神の愛が私たちに注がれていることを信じるなら、段々復活の喜びが私たちの心を満たすことが分かるでしょう。ですから「聖書を悟らせるために」(参照:ルカ24,45)イエスの復活が私たちの心の目を開きますように一緒に祈りましょう。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

   復活節第2主日  B年  2021411日   グイノ・ジェラール神父

           使徒4,32-35  1ヨハネ5,1-6  ヨハネ20,19-31

 「イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました」。来られるメシアが「平和の君」であることや、彼がもたらす平和が終わりのないことを預言者たちは告げ知らせました(参照:イザヤ 9,6 11,6)。 そしてイエスが生まれた時に、この平和が「神の御心(みこころ)に適う人々」に与えられることを天使たちは羊飼いたちに教えました。

 平和は復活されたイエスのプレゼントです。この平和がキリストの受難と死によって獲得されたのです。確かに十字架上で死ぬことによってイエスは世界と神、そして神と人間を和解させました。イエスはご自分を信じる人々の真の平和です。ご自分の平和を与えるためにイエスが「壁」を通過するなら、それは「人間を閉じ込める壁、人々を分け隔てる壁を壊すために」キリストが復活したことを意味しています。また神と人々の一致を妨げる物事を除くために たとえ人がドアに鍵をかけていても、キリストはそこに入りそばに来ることができます。

 人のそばに来ると、イエスは人を不安や苦悩、恐れなど、外部からの様々な刺激によって身体的、精神的におこる心労などから解放し、人の心を平和で満たします。イエスの平和がその人に新たな使命を与えます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。聖霊を受けなさい」と。イエスの名によって集まって平和を受けた弟子たちは、今度は神の名によって聖霊の賜物を受けるのです。というのは、イエスの名によってここで集まっている時、私たちは父なる神の名によって平和と「アッバ、父よ」(参照:ガラテ4,6)と言わせる聖霊の賜物を受けています。イエスの名によって一緒に集まっている私たちは三位一体の神が自分たちの内に留まりそこに住むことと私たちを聖化することを許しています。

 イエスが与える平和が、神のように憐れみ深くなり人を赦すエネルギーを私たちに与えます。今日の第一朗読が見せるように、平和で満たされた弟子たちは神の憐れみを人々に注ぐことができました。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」と記されています。イエスの平和と聖霊の賜物の目的は、イエスが行い愛したように私たちも行い愛することをさせることです。イエスから受けた恵みを私たちも出会う他の人々に伝え与える使命を受けています。

「慈しみの年」の間によく祈った祈りは、この目的を既に教えていました。今日は「いつくしみの日曜日」です。祈りの言葉を思い起こしましょう。「私たちは出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように」と。ですからキリストの平和と聖霊の賜物を受けて、一緒に、私たちは神の慈しみの宣教師、働き手そしてその証人となりましょう。アーメン。

*****************************************

    復活節第3主日   B年 2021418日    グイノ・ジェラール神父

        使徒3,13-1517-19     1ヨハネ2,1-5    ルカ24,35-48

 体の復活を否定しているギリシャ人のために聖ルカは自分の福音を書きました。当時の一部のギリシャ人たちは死後に人の魂が生き残ると思い幽霊の存在を説明しています。他のギリシャ人たちは魂が新しい体を選ぶと信じて、具体的な証拠を証明せずに輪廻の可能性を納得させようとします。そう言う訳で聖ルカは、イエスは幽霊ではないこと、弟子たちの前に磔刑の時の十字架の傷を持った体で現れたので輪廻ではないことをはっきりと強調しています。また弟子たちはイエスの体に触ってみことやイエスが食べることができること、一緒に過ごした過去の出来事を思い起こすことなどイエス本人かどうかをよく確かめました。

 復活の証拠を出来るだけ多く書き表することで聖ルカは「死と共にすべてが終わった」と思い込んでいるギリシャ人たちに信仰の光を与えようとしました。同時に、キリストの復活の事実が、今まで弟子たちが持っていなかった知恵をもたらしたことを聖ルカは教えようとしました。復活されたイエスは聖書を悟らせるためにご自分の弟子たちの心の目を開き、特別な知識を与えました。この弟子たちは聖書の内容をよく知っていました。幼い時からすべての男性は、聖書をよく理解して読むことを学び、またイスラエルの歴史と世界の地理を勉強していました。

 聖パウロ有名なラビ(先生)ガマリエルの弟子で聖書の専門家でした。何でも知っていて、何でも説明できたパウロでしたが、実はイエスの復活が自分の知恵を照らしたこと、そして結局は何も理解できていなかったことを証ししました。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3,8)と。聖ペトロは聖パウロのようには勉強しませんでした。しかし、イエスの復活の後、ペトロはエルサレムの偉い人々と聖書の専門家に反対することが出来ました。それは彼らよりもペトロはよく聖書の教えを理解したからです。イエスのすべての弟子たちも復活されたキリストから聖書の教えを悟ること、そしてそれを上手に正しく説明する恵みを受け、聖書全体がイエスについて語ることを大勢の人々に伝え知らせることが出来ました。

 聖書を悟る知恵を私たちは主イエスに願う必要があります。それは、先ずイエスをもっと知るため、そして聖書の言葉で養われイエスについて人々に証しするためです。教皇ピオ11世は次のように言いました。「聖書についてのキリスト者の無知は教会の脇腹に大きな傷を開いています」と。もしピオ11世が現代に生きているならば、きっとまた同じことをおっしゃると思います。

 もちろん、日曜日の説教は典礼の朗読を理解する良い助けになりますが、それだけでは足りないです。自分の家で聖書を持っている事はとてもいいですが、この本を開かないと全く役に立ちません。み言葉を通して生きているイエスと出会い、聖書の教えを通して復活したイエスを見ること、イエスに触れることを学びます。それをしない限り私たちは決して「抱いている希望について説明を要求する人に」弁明できません(参照:1ペトロ3,15)。ですから聖書を開くこと、聖書を読んで理解することを恐れてはいけません。なぜなら、主イエスが与えた聖霊は必ず「私たちにすべてを教える」(参照:ヨハネ14,26)からです。アーメン。

************************************************************************************

   復活節第4主日 B 2021425日  グイノ・ジェラール神父

         使徒 4,8-12  1ヨハネ3,1-2  ヨハネ10,14-15

 イエスは全人類に与えられた父なる神の賜物です。ご自分の命に私たちを与からせるためにイエスは死にご自分の命を与えました。イエスは私たちの命の主、命の泉ですから限りない愛をもってご自分の命を与えようとします。雇われ人はそれができません。雇われ人は命の所有者ではないので、危険が迫った時に自分に委ねられた人の命よりも自分の命を守るでしょう。

 この大切な事実を理解させるために、イエスはよい牧者とご自分を比較しました。イエスはまた他の福音の個所で、「養い、命を与えるパン」、「実を結ぶぶどうの木」、「旅行に出かけて、自分の財産をゆだねる人」あるいは「結婚する花婿」などとご自分を比較します。このすべてのイメージのお陰で私たちはイエスが誰であるかを少し解るようになります。そして私たちにご自分の命を与えられることも理解できます。

 しかしイメージは不都合も運んでいます。事実、羊飼いではなく、羊たちが牧者のために命を与えるのです。羊飼いは羊の毛を切り、その毛で糸を作り、その糸で服を織ります。そして私たちは羊のミルクを飲み、またそのミルクでチーズを作り、最後に太らせた羊を殺して食べてしまいます。今日の福音書のイメージによるとイエスは羊のために、つまり私たちのために、いつも面倒を見て世話をします。ところで、それでは私たちの自由と自発的な行動はどこにあるのでしょうか。キリスト者の理想的な行動は操り人形のように従順な人、未熟な人ではありません。そして私たちは判断できない羊の群れではありません。私たちは神のものです。そう言う訳でたとえ話のイメージに対して注意が必要です。聖書で見つけるイメージは光をもたらしますが、残念ながらすべてを理解させることはできません。

 更に日曜日の典礼は、いつも旧約聖書との関係から取り出した福音の1部分を紹介するので誤解を招く危険を持っています。たとえば今日の福音の個所に先立つ言葉を読めば、イエスは特に「緑の牧場に羊を導くために、門を開き、群れを外に連れ出す」と言ています。このイメージはイスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から救われたことと同時に復活の喜びをも思い起こさせます。まことの良い牧者であるイエスは、死と罪によって閉じた永遠の門を開き、私たちを解放し、自由にし、命に導きます。その上ご自分の命で私たちを生かします。この事実は自分の羊の群れを利用する羊飼いとは反対の行動です。ご自分の死と復活によってイエスは私たちを神の命に生きる、自由な人として形作りました。

 そう言う訳で、イエスは次のように断言しました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と。「と同じように」という単語はとても大切です。なぜなら父なる神とイエスが分かち合っている関係が私たちを潤し、生かすからです。ご自分の死と復活によって、三位一体の神の愛の内にキリストは私たちを引き寄せるのです。

 私たち一人ひとりは、神と共に親密に生きることを望むことを選ぶかどうか、と言うことが大きな問題です。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(1ヨハネ3,1)と聖ヨハネは、喜びの声をあげ叫びます。ですから今日もまた、イエスの内に示された素晴らしい愛のために、神に感謝しましょう。そして私たちはキリストに結ばれて、兄弟姉妹となったので、聖霊の力の内に増々お互い相手を愛し合いましょう。アーメン。

*****************************************

    復活節第5主日 B年 202152日    グイノ・ジェラール神父

       使徒9,26-31   1ヨハネ3,18-24  ヨハネ15,1-8

 先週の日曜日「よい牧者」と書かれていたイエスは、今日「まことのぶどうの木」と記されています。とうことは、私たちがよく知っているぶどう畑はイエス・キリストの模倣品です。聖書全般にわたって、ぶどう畑と農夫というテーマをたくさん見つけることができます。一般的にイスラエルの民はぶどう畑に例えられ、神はその誠実な農夫として表されます。しかし、イエスにとってイスラエルの民は、もはや神のぶどう畑ではありません。というのは、ご自分がただ一人で、神の心に適うまことのイスラエルの民となられたのですから。

 父なる神はこの世に属する私たちに命を与えるために、肉となっみ言葉であるイエスによって、私たちが実を結ぶように手入れをなさいます。それを目指して、イエスはまことのぶどうの木として枝である私たちに神ご自身の命を移植します。これについてイエスは、はっきり断言しました。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(参照:ヨハネ10,10)と。この命は、イエスによって、もっと質の高い命になります。言い換えれば、ちょうどぶどうの木に繋がっている枝が木の幹から樹液を受けて実を結ぶことができるように、私たちイエスによって生かされて、豊かになります。

 父なる神に親密に繋がっているイエスから離れてしまうと、私たちは何もできません。ですから、大切なことはイエスが招き入れ一致させた神の愛に留まることです。イエスは「留まること」とう言葉を今日の福音のすぐ近くの箇所で8回繰り返しました。私たちに捧げられたキリストの豊かな命は、キリストと共に生きる力を与えます。すなわち私たちに実を結ばせるものとは、キリストとの一致の繋がりです。イエスは私たちのために命を捨てました。それは「世の救い」「すべての人の救いのため」にご自分の命を与えることです。誰であろうと、人は自由に「救いの泉」であるイエスのうちに生きる力と豊かさを汲むことができます。

洗礼を受けた時に、私たちはぶどうの木であるイエスに繋がりました。枯れた枝にならないように度々神の言葉の手入れを受けることはとても大切です。教会の秘跡を通してイエスが与えようとする樹液で自分を養うことが必要です。この樹液は「神のみことば」、「いのちのパン」、「世の光」、「地の塩」「私たちのあがない」であるイエス・キリストご自身です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」(参照:ヨハネ 6,54) とイエスは約束しました。

 神の命、キリストの命が実らせる実は「愛の実」です。神への愛、隣人への愛です。今日の手紙を通して聖ヨハネはそれを思い起こさせました。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(参照1ヨハネ,18)と。

 ぶどうの木と枝によって象徴されている、キリストと弟子である私たちの繋がりは具体的に砕かれたぶどうの実から出たぶどう酒として示されています。信仰は試練のある長い道のりです。もし、私たちがキリストと共に神に捧げられた者として、砕かれることを承諾するなら、疑いもなく、私たちは「キリストと共に世界の人に命を与える完全ないけにえである」保証を受けるでしょう。言い換えれば、父なる神の心に適うものになるでしょう。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

       復活節第6主日  B年  202159  グイノ・ジェラール神父

      使徒10,25-2634-3544-48   1ヨハネ4,7-10  ヨハネ15,9-17

 先週の日曜日にイエスは自分をぶどうの木に例えて、枝である私たちがぶどうの木に留まることを強く願っていました。今日は、イエスはこの願いを繰り返しながら、ご自分の愛に留まるように要求しています。ところで「愛に留まることはどういう意味でしょうか。

 愛に留まることは、お互いに相手を受け入れ、深く浸透するために出会うだけでなく、長く続く触れ合いを要求します。これはちょうど接ぎ木が成功するために必要な時間と同じです。接ぎ木する時には、二つの切込みが必要です。一つはぶどうの木に、も一つは接ぐ枝に、そしてその二つの切込みをしっかりと結び合わせるのです。それはぶどうの木の樹液が接いだ枝を養い生かすためです。復活の力が自分をあらゆる面で潤すために、キリスト者は自分の傷をキリストの傷と一致させるように招かれています。傷と傷を合わせて、苦しみと苦しみ結ばれている状態こそが愛の内に留まることを可能にします。他のやり方はありません。聖ペトロはこの事実を真剣に考えるように教えています。「キリストが受けた傷によって、私たちは癒されたのです」(参照:1ペトロ, 24)と。

  「私を愛していますか」と三回イエスに質問されたペトロは、受難の時に公にした自分の否認の傷を復活したキリストの愛に組み合わせる勇気を示したので、彼は癒されました(参照:ヨハネ1,15-18)。もし救い主イエスの愛の傷に私たちの罪の傷を強く繋ぐなら、私たちも癒された者となるに違いありません。「愛の内に留まること」を理解するなら、命の木であるキリストに自分を接ぎ木することを望むでしょう。イエスこそが私たちの人生の樹液、私たちの愛の泉、私たちを赦す力、聖とする方、また実を結ばせるお方です。

 そういう訳でキリストの愛に留まることがとても大切です。イエスに結ばれていれば、たとえ私たちの行いが小さくても永遠の値打ちを受けます。なぜなら、これらの行いは私たちに示されたキリストの愛の実りですから。イエスの愛は地上で私たちが行ったことを天国に相応しいものとします。言い換えれば、キリストの愛に留まって、イエスにしっかりと結ばれている状態で、私たちは日ごとに自分の永遠の未来を築いています。


 
それでは、キリストを知らない人々はいったいどうなるかと考えてみたいと思います。もし彼らが愛をもって行うならば、その人々も、知らないうちに、キリストと共に自分たちの永遠の幸せを築き上げ、準備しています。まことの愛をもって何かを行う人は、宗教に属していてもいなくても、信者であっても、無論者であっても、その人の内にキリストの愛の樹液が流れています。今日の第一朗読はこれについて証ししています。「ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた」(参照:使徒10, 45)と。

 ですから、私たちも世界で働いている、復活したイエス・キリストの業を見分けるようにしましょう。神がすべての人に愛をもって自分の永遠の幸福を築き上げる可能性を与えることを喜びましょう。特に、イエスの愛の内にずっと留まるための恵みを神に願いましょう。アーメン。

++++++++++++;++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

     主の昇天 B年  2021516     グイノ・ジェラール神父

        使徒1,1-11   エフェソ4,1-13     マルコ16,15-20
 

 クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した時、また宇宙飛行士ニール・アームストロングが月の土を踏んだ時、全人類の前に新しい世界が開かれました。キリストの復活と昇天によって、全人類のために新しい世界が開かれたことを初代教会のキリスト者はよく悟りました。

 肉となったみ言葉であるイエスは、父なる神の懐に帰ったと同時に、三位一体の神の神聖に私たちの人間性を組み入れました。復活し死者の国から出て、天に昇ったイエスは、神の親密さの中にご自身と共に全人類を取り入れます。いまからは天と地は切り離せないものとなりました。聖霊降臨で与えられた聖霊がそれを保証しました。すべては以前の通りではなくなりました。宇宙万物は死から命へ、暗闇から光へ、季節の循環や時の流れから永遠へ移されました。アメリカが月の土壌の成分が何かを知っても、私たちは天についてはよく分かりません。全人類が神と一致していることしか分かりません。

 「私は世の終わりまで、いつもあなたたがたと共にいる」(マタイ28,20)とイエスは約束しました。そして私たちに聖霊の力を与えました。天と地が一致しているのと同じように、私たちがキリストと共に一つの体と一つの霊とならなければなりません。エフェソの教会の手紙を通して聖パウロはそれを詳しく説明します。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」(参照:エフェソ4,13)

 さて、出発する前にイエスは弟子たちに福音の良い知らせを「創造されたすべてのものに」伝えるように命令しました。ある翻訳が教えるように、イエスは決して「全ての人」あるいは「すべての国」とは言いませんでした。むしろ「すべての造られたものに」(ギリシャ語で パセ・テ・クシセイ)とはっきり言いました。それをよく理解した聖パウロはローマ人への手紙の中で次のように書きました。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(参照:ローマ8,21-22)と。またこれについて、イザヤの詳しい預言があります「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11,6-8

 確かに、救いの良い知らせは宇宙万物に及ばなければなりません。なぜなら神は、ご自分の心に適うキリストの内にすべてを新たにしますから。キリストに結ばれている私たちは、この新しい創造に参加するように召されています。福音宣教を伴う印(蛇をつかむ、悪霊を追い出す、毒を飲む)が与えられるのは、人々を驚かせるためではなく、むしろアダムの時に罪が入り調和を破壊しましたが、罪の入る前の最初の調和を取り戻すためです。私たちが創造されたすべてのもと最初の調和を取り戻すことが出来ないかぎり、神と私たちの調和を取り戻すことは難しくなります。

  神は私たちと共におられます。罪と腐敗から解放され、調和を取り戻した宇宙万物(参照:第4ミサ奉献文)と共に、上の方へ、つまり愛の完成へ引き寄せるために神は私たちの直ぐ傍に留まります。私たちの心が宇宙と無限の広さに合うように、神はずっと私たちに伴うつもりです。そうであるならば、遠慮なく主の昇天の喜びを受けましょう。主の昇天が、既に私たち個人の昇天の始り(芽生え)ですから。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

聖霊降臨  B年 2021523   グイノ・ジェラール神父

使徒 2,1-11    ガラテヤ 5,16-25    ヨハネ15,26-2716,12-15

 聖霊降臨後、私たちは聖霊の教えと導きに従って生きるように招かれました。ガラテヤの信徒への手紙を通して、聖パウロ自身がそれを実践して励んでいます。キリストから離れると私たちは何もできません(参照:ヨハネ15,5)。そういう訳で、自分にしっかりと結び付くように、イエスは聖霊を私たちに与えました。暗闇と誤りで満たされたこの世で真理を見せる光として、また、信仰の教育者として、更には道案内をする者として聖霊が私たちに伴っています。


初めは、聖霊降臨は穀物の楽しい祭りでした。イスラエルの民は感謝をしながら、神に収穫の最初の束(初穂)を捧げていました。そして神がイスラエルの民と結んだ契約を思い起こしていました。キリストの復活によって、神は全人類と新しい契約を結ばれました。神は、もはや「一緒におられる神」ではなく、「私たちの内に留まる神」になることを決めました。そういう理由で、神は聖霊を私たちに与えてくださいました。

 聖霊の降臨を現わす強い風は過去を追い払い、神が私たちの内に留まることができるように、私たちの心を開き、拡大します。神と私たちの間にあった距離を聖霊が取り除きました。イエスが約束し宣言した通り、今から後、神はわたしたちの内に留まり、わたしたちも神のうちに留まります(参照:ヨハネ15,4)


確かに聖霊降臨は、イスラエルの過去の繋がりを切ってしまい、神の救いと信仰の恵みを世界の人に提案します。神の新しい民は世界に広がっているキリストの教会です。神を信じる人々はイスラエル人のヘブライ語を学ぶ必要はありません。ギリシャ語やラテン語だけでなく、世界のすべての言葉で話すことができます。誰であろうと、人は自分の言葉で神に祈り、賛美すること、そして神の言葉を聞くことができます。地上のすべての民、すべての文明と文化が聖霊の教え導きに従って生きることができます。この大切な事実を聖霊降臨の出来事と舌の形をした聖霊の炎ははっきり教えています。聖霊降臨の日から、知っていても、知らなくても、全人類は日常生活を通して神の命に与からせる息吹を受けています

 聖霊のお陰で、今まで何も理解せずに、呆然して恐れいたイエスの弟子たちはあっという間にキリストの真理について明白な証人となりました。弟子たちの証しは効果的です。なぜなら彼らは自分たちがようやく深く理解したことについて、自信を持って語ったからです。聖霊は弟子たちに力と勇気を与えたので、彼らは全てに逆らって、すべての人に反対しても、キリストの真理について証し出来るからです。そういう訳で、キリストを信じるすべての人に力と知識を豊かに与える聖霊の助けを私たちも神に願うことがとても大切です。

 自分たちの生き方に現れる真理の証しによって、私たちは復活されたキリストの証人となるように招かれています。イエスは聖霊を遣わすと約束されたからこそ、私たちは聖霊をいつでも、どこででも受けることができる準備のできた人となりましょう。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 三位一体の祭日  B年  2021530  グイノ・ジェラール神父

申命記 4,32-3439-40  ローマ 8,14-17  マタイ 28,16-20


 神は誰でしょうか。この質問に答えることはとても難しいことです。なぜなら私自身もはっきり知らないからです。神を説明することは不可能です。私たちの自分自身に注ぐ眼差しは正しくありません。まして他人を見る眼差しは正しいはずがありません。ですから、真理の内に自分を理解するために、私たちによく似ている神を知ることがとても大切です。神だけがご自身を完全によくご存じです。 被造物である私たちにとっては、神は理解できない神秘ですが、神自身はそうではありません。神はご自分のことを完全によくご存じですし、またご自分の子イエスによって完全に知られています。その知識こそが父なる神とイエスを一致させます。また、父と子の間に愛である聖霊がおられます。聖霊自身、父も子も完全によくご存じですので、彼らと一緒に一致しています

「父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(参照:ルカ10,22 )とイエスは教えました。イエスが神を啓示したことで私たちは神がどういう方であるかをほんの少し知ることができます。また聖パウロもローマの信徒への手紙を通してたくさんのことを教えています。まず「聖霊によってわたしたちは、神を『アッバ、父よ』と呼ぶ」ことができ、そして「わたしたちが神の子供であることを」(参照:ローマ8,15-16)知るのです。また、イエスの死と復活によって私たちは神と和解させられました。「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得てお...わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(参照:ローマ5,15)。更に、三位一体の神と共に、愛の交わりの内に、私たちが「新しい命に生きるため」(参照:ローマ 6,4)に、父なる神とイエス・キリストは私たちに聖霊を豊かに与えられます。

 ですから、最も大切なことは三位一体の神秘を理解することではなく、むしろ、神の心から湧き出る愛に捉えられるようにしなければなりません。この世の中で私たちが神ご自身の顔の現れであるように、神は愛によって私たちを創られました。私たちが神の子どもであり人々の兄弟姉妹となるように、父なる神はご自分の子イエスと聖霊を私たちに遣わしました。

神の愛は決して抽象的な愛ではありません。その愛は人間の歴史に深く根を下ろしています。聖書の中に啓示された神の愛は、無償であり、無限であり、唯一で、すべての人に個人的に個々に提案されています。ご存じのように私たちが愛す時には、神ご自身の命に与かっているのです。確かに愛する人は三位一体の神秘に入っています。三位一体の神秘のうちに、神が「愛する方」であると同時に「愛されている方」でもあり、そして、何よりもまず、父と子と聖霊完全に一致する「永遠の愛」です


 聖ヨハネはこの神秘を一つの文でまとめ「神は愛です」(参照:1ヨハネ4,8)と言います。“愛”とは私たちが生きるようにと信仰が誘う完全な姿です。今日で母マリアの月が終わります。母マリアは、精一杯、三位一体の神と共に愛の絆で生きていた方なので、私たちにその愛し方を教えてくださるように願いたいと思います。なぜなら「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(参照:ローマ5,5)。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

    キリストの聖体  B年  202166  グイノ・ジェラール神父

    出エジプト24,3-8    ヘブライ 9,11-15     マルコ 14,12-1622-26

 今日は晩餐の時にイエスが言われた言葉を思い起こしています。2000年前に言われたこの言葉は、世代から世代へ正しく伝えられてきました。イエスはご自分の血によって全人類に結ばれた永遠の契約を示すために、パンとぶどう酒を選びました。今日、私たちは信仰の中心であるこの神秘を祝い、またこの神秘に与かっています。

 キリスト者は、ある教理あるいはある宗教に加盟する人ではありません。キリスト者はイエス・キリストに従い、キリストと強く結びつき、キリストの命に生き、彼と一致するためにキリストに飢え乾く人です。「命のパン」として自分を捧げることによって、イエスは私たちにキリストご自身によって生きること、親密に自分の人生を彼の生き方と結びつける恵みと可能性を与えました。これこそが今日、教会が祝う神秘です。言い換えれば、ミサ祭儀に与かることでキリストの体と血は私たちの体と血になります。ちょうど聖パウロが言ったように「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(参照:ガラテ2,20)と。

 日曜日にミサ祭儀に与ることが習慣になっているので、その意味を忘れていても、あるいは深く考えなくても、私たちが日曜日のミサ祭儀に与るためにここ来る理由は、自分たちを養うためです。まず神の言葉によって、次にキリストの体によって自分を養います。聖アウグスティヌスはその目的を教えました。それは「自分たちが受けたものに完全になるためです」。世の救いのために私たちが新しいキリストにならなければなりません。

 また私たちがここに集まっている理由は、色々と分かち合うためです。それは同じ神秘に与かっているからです。一緒に祈り、互いに喜びや希望や悲しみを背負うために、この場所でイエスを囲むことがとても大切です。一緒に与かるミサ祭儀によって、私たちの心が広がり、無関心の気持ちが消え去り、私たちのお互いの責任を前よりも感じるようになります。

 確かに、神の言葉を聞くこと、キリストの体をいただくこと、共同体的な交わり、分かち合いなどイエスが結んだ永遠の契約で私たちは生かされるのです。モーセの時代に動物の血によって結ばれた神の契約は、十字架上で流されたキリストの血によって完成されました。第一朗読と第二朗読はこの大事な事を私たちに思い起こさせる目的をもっています。キリストの聖体の祭日を祝うことで、私たちは命の神秘と共に死に対する命の勝利を祝っています。この勝利は神と全人類の間にある二つの契約が血の内に結ばれ、実現されたことを表します。

 今日、キリストの受難、死と復活を記念する私たちは偉大な神秘に与かる恵みを与えてくださった神に感謝しましょう。私たちの命であるキリストに結ばれて、キリストと共に自分たちの「体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げましょう」(参照:ローマ12,1)。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



  トップページに戻る